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刺繍と私の物語01|入園でやっとできた“私の時間”
はじめに この記事は、私が刺繍を仕事にした経緯と、そこから今までの歩みを振り返る連載の第1回です。素敵なご縁や出会いをきっかけに少しずつ広がっていった仕事の過程を、1話につき2〜3分で読めるボリューム ...
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着付けのお稽古へ

シンクロ寝。しつこいようですが、娘たちが寝たらとにかく刺繍時間!
出産後は専業主婦として子どもとどっぷり過ごし、子どもが幼稚園に通い始めると、久しぶりに自分のための時間が生まれました。30代になっていた私は、その時間を使って着付けを習うことにしました。
着物を着る機会を増やす工夫

舞扇子は先輩からおさがりをいただいたのが最初
さすがに花嫁衣装まで本格的に着付ける必要はないと思っていたものの、「習った着付けを無駄にしたくない」という気持ちがありました。そこで、学んだら必ず着物を着る、と心に決め、普段着(たまにのお出かけ着)として着物を楽しむつもりで「踊り」のお稽古に通い始めます。
踊りのお稽古へ

私が一番気に入っていた桃色の舞扇子
「着物は着られて当然」という自分の中の価値観も手伝って、着物を自然に着こなせるようになりたいと思いました。そのため、町の婦人会の方々が行っていた踊りのお稽古にも参加し、着物で出かける機会を意識的に増やしました。多いときには週に3回もお稽古に通うほど、熱心に取り組んでいました。
とにかく踊りに夢中。着物よりも踊りにハマる日々。

真ん中が踊りのお師匠さん。本番前は帯を直し直されみんなで仲良く。
盆踊りの季節になると、どこからともなく現れる「同じ浴衣を着たおばちゃん達」。私はそのうちの一人となっていました。踊りの師匠や姉弟子の皆さんとお揃いの浴衣を着るだけで、とてもかっこいい気持ちになった――あの嬉しさは今でも鮮明に覚えています。
踊りを習うことで、着物を着た時の所作や手つきなど、着こなしの美しさに直結することもたくさん教わりました。指の先や首の少しの動きなどを教わると、ただの盆踊りと言えないくらいに踊りが変わりました。聞けばすぐできるという簡単なものでもなく、難しいことも含めて本当に楽しかったです。
お稽古の合間に先輩方と一緒に食べたお弁当やお菓子の味も、忘れられません。
お礼に作った特別ながま口
細かな刺繍をたっぷり入れて

まだ刺繍を仕事にしていなかった2011年に制作したもの…戸塚刺繍さんの書籍に載っていた作品を自分なりにアレンジし、配色は全て自分で好きなものにして刺し、これをがま口に仕立てました
そんな中、着物の下に着る下着を和裁で手作りしてくださった方がいました。その方は和裁や踊りの腕前だけでなく、生き方や家事、人付き合いに至るまであらゆる面で優れた女性でした。私が一番、大尊敬していたKさんからいただいたその下着は、私にとって踊りのお守りのような存在になりました。手作りだから既製品より質が下がるのではなく、既製品よりも着心地がよく、踊りをするにも動きやすい一級品でした。

後ろ側には名入れを
自分では作り方の分からないうえに価値のあるものをいただいたことが嬉しく、どうしてもお礼がしたくなった私は、細かな刺繍をたっぷり入れた小さながま口を作ってお渡ししました。それは娘に作ったものとはまた違い、特別な思いを込めた手作りの品となりました。
自分だけの帯や半衿を作り始めて

帯枕は、着ていて見えないアイテムですが、だからこそ隠れて派手にかわいくするのが楽しいものでした
踊りや普段着着物を楽しむ中で、私は次第に、自分だけのかわいい帯や半衿、帯留めが欲しくなっていきました。お店を探しても「これ!」と思うものに出会えず、それならばと、自分で刺繍を施して作るようになりました。

刺繍はしていないけれどお気に入りの花柄の布を使って
吉澤暁子先生の一言がくれた大きな転機
そんなある日、着付けでお世話になっていた吉澤暁子先生が、私の作った半衿や帯留め、がま口などを見てこうおっしゃったのです。
「これ、絶対に売れる。うちのお店で売らせて。手刺繍の半衿なんて、みんな喉から手が出るほど欲しがるよ」
第3回へつづく
ここで登場した吉澤先生は、知る人ぞ知る着物界のスーパースターです。先にお伝えしておくと、先生は一昨年の夏、53歳でご逝去されました。訃報に接したとき、着物界隈の多くの方々がブログなどでお別れの言葉を綴られているのを拝見しましたが、その方たちに比べると私は着物業界の人間ではなく、外側から何かを言うのに気が引けてしまい、言葉を綴ることができませんでした。あれから2年が経ち、今あらためて、私が刺繍作家として歩み始めるきっかけをくださったことを記し、大きなご恩をいただいたことへの感謝をここに残しておきたいと思います。吉澤先生については、次回のブログであらためて書かせてください。